地下鉄サ●ン事件の被害者と場所の謎と説明できない最大級の矛盾点について
いろいろ
おかしなとことがあります
オウムがやったということにしていますが
ちょっと待ちましょう!
他にいるんです
やったやつが
その根拠を
考えていきます
Contents
全体像●20年以上たっても誰も真相を明かさない。まさにパンドラの箱。ここを頑張って開けていきます。
【当時のおかしい状況】★最後に考えていきます★
サリンは無臭である。なのに、地下鉄に撒かれたものは異臭を伴っていたことが特徴である。
「神谷町駅では午前八時十分過ぎ、中目黒発東武動物公園行き電車の先頭車両で異臭が発生した。
新聞紙に包まれた五十センチ四方ぐらいの包みが原因らしい」としている。
このことから
わかることがあります。
実際にサリンをまいたかどうか
分からないとして
サリンと
サリン以外の者
無臭と
無臭ではないものが
まかれたということ
しかし
この部分については
全く触れない。
地下鉄サリン事件と
当時から一言で言っているが
詳細を調べると
実は違ったことがわかってくる
地下鉄サリン事件のターゲット
丸ノ内線、日比谷線で各2編成、
千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内
地下鉄サリン事件で13名の方々が逝去された。その中で何と10名が日比谷線利用者
その中で北千住7時43分発の日比谷線中目黒方面行きが8名の死者を出している。
★ここだけ亡くなった人が多いということも
疑問視されている
北千住発日比谷線は散布役の林泰男(現在は小池泰男)と送迎役の杉本繁郎が担当した
他の実行犯が2パックを携帯したのに対し、林は3パックを携帯した。
また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。
彼は北千住7時43分発の電車の3号車に上野駅から乗車した。
林は秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布した
事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅と神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。
次第に被害が拡大したため営団は8時35分、日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。
一方で千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、更に被害発生の確認が遅かったため、運行が継続された。
なぜ林泰男だけ3パックを携帯し秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けたのか?
このことについて
ある説が出ている
広い収容スペースがある東京築地の聖路加国際病院に多数の犠牲者を収容する
という目的があった可能性です
秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けた
悲惨な状況のピークになる頃、電車は聖路加国際病院の最寄り駅・築地駅に到着する。
聖路加国際病院
日本の敗戦後には旧称に復帰したが、日本を占領下においた連合国軍を構成する一員となった
アメリカ軍に病院施設が接収されて米軍極東中央病院として使用された
聖路加国際病院は、元米軍極東中央病院です。
病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来
1933年、 皇室・米国聖公会・米赤十字などの寄付により新病院再建(現在の旧館)された。
1943年、政府に「大東亜中央病院」という名称に改名させられた。
特高警察がスパイの嫌疑で日野原重明や同僚を取り調べたり、特高警察が患者を装って病院に出入りし、「大東亜中央病院」を監視をしていた。
1945年: 当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れた。
このことが
何かしら関係している可能性がある。
しかしこれ以上調べても
分からない
【この委員長についての噂がある】
日野原重明
京都帝国大学医学部を卒業後
1941年に聖路加国際病院の内科医となった。
1951年、聖路加国際病院内科医長に就任した。
1974年、聖路加国際病院を定年退職。聖路加看護大学学長(第4代)に就任(1998年迄)。
1992年に聖路加国際病院院長に就任(1996年迄)。 無給で院長を務めた。
1996年、財団法人聖路加国際病院理事長に就任、院長を退任し聖路加国際病院名誉院長となった。
日野原は日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性を説き終末期医療の普及にも尽くした。
従来は「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めた
2001年12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げた。高齢者の希望の星的存在となっている。
保守思想を持ち、皇室を崇敬。度々皇室行事に招かれている。
新日本国憲法に勤皇奉仕義務を明記するよう求めている
★このこと自体は
いいのかわるいのか?
判断ではないということ
★なぜ無給なのか?
金があるからか?
1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きた。
院長であった日野原氏の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となり、
朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最少限に抑えることに繋がったと評価されている。
この病院の対応は、ペンタゴンをはじめ諸外国からも絶賛された。
問題はここからです。
地下鉄サリン事件が起きる事を予期していたかのような聖路加国際病院の新病棟建設
日野原は「過剰投資ではないか」という批判を抑えて
大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として
広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年に完成させた。
この備えは1995年の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能した。
★文字どうりに解釈すれば
いいことをしている人間となる
運び込まれた聖路加国際病院の廊下で治療を待つ被害者
日野原は、1941年に聖路加国際病院の内科医となって以来現在に至る迄、聖路加国際病院と関わっている。
新病棟は、地下鉄サリン事件の3年前の1992年に完成した。
日野原は、その1992年に聖路加国際病院院長に就任
地下鉄サリン事件が起きた翌年の1996年院長を退任した。
★偶然でしょうか?
日野原は、地下鉄サリン事件が起きる事が判っていて、
地下鉄サリン事件に対応できる新病棟を建設し、1995年3月20日の地下鉄サリン事件に対応した翌年
使命を終えたと思い院長を退任した
可能性が疑われる
事前に判っていれば、当日に入るかもしれかった手術は、他の日にずらす事も可能
当日、出勤する医師や看護師の数も事前にある程度増やしておく事が可能だった
日野原は、院長
【日野原重明の不可解な発言】隠している●意図的に隠している●この件の真犯人を!!!
事件直後に
このようなことを
投稿した人が
います。
事件直後、聖路加国際病院院長(当時)だった日野原重明氏(1911~2017)が、テレビカメラの前で行なった発言
事件直後、多くの被害者を受け入れた聖路加国際病院院長(当時)日野原重明氏は、テレビカメラの前で、「使はれたのは、青酸系サリン」と発表
「青酸系サリン」とは、何の事でしょうか?
青酸系神経ガスそれはタブン
日野原は、テレビカメラの前で、メモを手に、「使はれたのは、青酸系サリン」
といった
「青酸系サリン」と言ふ言葉はおかしい
「青酸系神経ガス」の事なのではないでしょうか。
日野原重明氏は、タブンが使はれた模様だと言ふ報告を受け、それを報告者が、「青酸系サリン」と書いた為、そのまま、それをテレビカメラの前で読み上げたのではないか?
★どうかわかりません。
仮にタブンが使用されたとする。
その場合、問題に成るのは、オウムが、そのタブンを何処から入手したか?です。
彼らは、自分達で、タブンを製造したのでしょうか?
★サリン以外のものが使われていた
根拠となります
あの日、地下鉄に撒かれた毒ガスが、神経ガスであった事は確か
しかし私は、疑問を持って居ます。
鮮紅色の皮膚の問題が有る
神経ガスには、サリン、タブン、VX、などが有ります。
これらは皆、化学的には、有機リンです。
これらの有機リンは、副交感神経を刺激します。
その結果、縮瞳が起こり、気道の分泌物が増加します。
縮瞳が顕著だった犠牲者達が、神経ガスに曝されたであろう事は、良く理解出来ます。
皮膚が鮮紅色だったのは何故なのでしょうか?
私は、あの日、この化学テロの被害者たちの医療に当たった医師から直接話を聞きました。
そして、その医師が言った次の言葉が忘れられないのです。
「始めは、一酸化炭素中毒かと思った。」
これが、その医師が私に言った言葉
せんこう‐しょく
一酸化炭素中毒の特徴は、皮膚が鮮紅色に成る事だからですが、それほど、あの日、地下鉄で化学テロに遭遇した被害者の皮膚は、鮮紅色
もちろん、被害者たちは、一酸化炭素に曝された訳ではありません。
縮瞳が著明だった事、呼吸困難を引き起こしてゐた事から判断して、神経ガスであった事は確かでしょう。
しかし、サリンで皮膚が鮮紅色に成るのでしょうか?
「一酸化炭素中毒かと思った」と、被害者の皮膚を見た医師が言った程に。
神経ガスの臨床症状に関する文献は極めて少なく、この点を文献的に確認する事は出来ません
神経ガスではあっただろうが、本当にサリンだったのか?
或いは、サリンだけだったのか?
皮膚が鮮紅色に成ると言ふのは
一酸化炭素でないとすれば、シアノ基を持った物質ではないか?
シアノ基(CN基)を持った神経ガスは有るのでしょうか?有ります。
それは、タブン(tabun)です。
歴史的には、サリンよりも先に、ドイツの化学者シュレーダーが、偶然、合成した最初の神経ガスです。
そのタブンは、シアノ基を持つ物質です。あの日、タブンが撒かれた可能性は否定出来るのでしょうか?
こうした理由から、私は、1995年3月20日(月)に東京で起きた化学テロ事件を「地下鉄サリン事件」とではなく、
「地下鉄神経ガス事件」と呼んで居ます。タブンが使用された可能性を否定出来るのか、分からないから
★このことに
せまる
一般人対して
それを
否定したかのような
発言をしている
事件直後、聖路加国際病院院長(当時)だった日野原重明
(1911~2017)が、テレビカメラの前で行なった発言
事件直後、多くの被害者を受け入れた聖路加国際病院院長(当時)
日野原重明は、テレビカメラの前で、「使はれたのは、青酸系サリン」と発表
「青酸系サリン」とは、何の事でしょうか?青酸系神経ガスと言ふ意味
それは、タブン
「青酸系サリン」と言ふ言葉はおかしい
「青酸系神経ガス」の事なのではないでしょうか。
日野原重明は、タブンが使はれた模様だと言ふ報告を受け、それを報告者が、「青酸系サリン」と書いた為、そのまま、それをテレビカメラの前で読み上げたのではないか?
★真相を隠した
仮にタブンが使用されたとする。
その場合、問題に成るのは、オウムが、そのタブンを何処から入手したか?です。
自分達で、タブンを製造したのでしょうか?
このことから
明らかである
警察も
マスコミも
病院も
司法も
この事件で
オウム以外の
人間の犯行を
隠している
そこには
一切触れない
この事件は
オウムに注目させた
共犯がいる
そして
被害者が
日野原重明の病院に
いったことも
偶然とは思えない
日野原重明は、聖路加国際病院院長
元米軍極東中央病院
オウムの事件は
オウムだけではなく
統●
せんべえ
さらに
一部自衛隊
もしかしたら
731の関与が疑われる
この話を
している人を
僕は今まで見たことがない
オウムの●物を
破壊し
いったい何を目的として
このようなことが
起こされたのか
全くわからない。