代わりはいくらでもいるという表現について考察!

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今回は代わりはいくらでもいるという表現について考えていきます。僕も職場でこのようなことを言われたことがありますがそんなことはないと思います。僕の思うことを書いていきますので最後までご覧いただければと思います。

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ネット上にあった投稿について。

このような投稿がネット上にありました。

「お前の代わりなんていくらでもいるんだぞ?」
「はい。ですので、今日は辞表を持ってきました」
懐から辞表を取り出すと、課長は悲しそうな顔を見せた。
「…でもな、俺にとってはお前しかいないんだ」
そう言って、課長は俺の辞表を破り捨てた。
「課長…」
俺は懐から代わりの辞表を取り出した。

このやりとりは後半部分はユニークさがあるのかもしれませんが・・・

前半はこのようなことを言われる空気感だと思います。

この投稿した人はそう言われるあるいは辞表を破られるということを想定していたんではないかな?と思います。

後半のフレーズをいうのであれば前半の表現いらないと思います。

課長と言いますが人の気持ちが分からない人間だなと僕は思います。

続いてこのような言い方ならいいなと思う感動する言葉について触れていきます。

自分の代わりはいくらでもいるという表現の良い使い方について。

自分の代わりならいくらでもいるということのいい使い方あるいは感動する表現について紹介します。

「お前の代わりならいくらでも居る!だから、今はゆっくり休め。しっかり休め。」

このような言葉をかけてくれる上司はいいですね。そんな上司の下でなら頑張って働こうかなという気持ちになります。

さらにこんな感動的な言葉もあります。

きびしー上司に退職の意思を伝えたら「●年間、どこに出しても恥ずかしくないように育ててきた。胸を張って行きなさい」と言われて号泣したと言う話

この上司の話もいいですね。

最高の上司だと思います。

人の上に立つあるいは管理職になるのならこのような人間になりたいと思います。

最後に僕の解釈を書いていきます。

自分の代わりはいくらでもいることなどないと思います。

自分の代わりなどいくらでもいるといいますが全くそんなことはないと思います。

自分の代わりはいないと思います。

みんないろいろな想いを抱えながら学校や職場や主婦をしていると思います。

そういうことが認識される
社会になってもらいたいと
願います。

何かしら参考になっていただけることがあれば何よりです。

最後までご覧いただきましてありがとうございました。

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