日航機123便の生存者が4人ではなく8名だったという可能性について。
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全体像について●生存者についていろいろ調べて分からない部分もあるのですみません。4人生存でわかるのは2人です。残りの2人について調べたけれどわかりませんでした。もしもお分かりでしたら教えていただければと思います。なかなかあらゆるものは分からない厳しさがあります。
【意見】コメント貴重
中学生だからよく覚えています
生存者8名
これはしっかり耳に聞いて覚えています
そして4名がなくなった
私はもしこの4名が生きているなら
そばに一生しゃべらないようについているのだろうと思っています
結婚したとしても相手がそっちの人間かもしれません
身近にぴったりついているはずです
事故に見せかけて〇することだってできますから
口封じは〇するだけではない
このコメントいただきました
この人頭いいですね
この頭のいいご意見を
元に調べてみました
【意見】
長野県川上村の123便墜落の目撃者は、123便墜落の際、原爆投下の際のようなきのこ雲が上がったのを目撃している。
キノコ雲は中性子爆弾
このことを隠すために
何かしら起こされたというのが
123便の裏に隠されていると思います
原子力利権
【意見】
「大変敏腕なパイロット達で御巣鷹山の木々をクッションのようにして上手く不時着した。だから着地した時は乗客のほぼ全員生きていた。」
生き残った生存者はほとんど虐殺されました。
これをやったのが米である
可能性です
公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に、自衛隊員が既に100名程度来ていた。
自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた。
4~50名の生存者の声が聴こえた。
1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなった。
★自衛隊員
といいますが
米傘下の
闇組織だと思います
枯葉剤+VXガス
核兵器が使用された可能性があります。
カメラマンは肺がんを患っています。
墜落当時の現場は、ひどく放射能汚染されていた
キノコ雲
中性子爆弾です。
「日航123便撃墜の最高責任者は中曽根康弘」
その背後に
天●がいる
可能性大
【意見】
520体の石仏
高天原「タカアマハラ」(たかまがはら)山は、日本神道にとって最も神聖な所を示す言霊を冠する山
高天原(たかまがはら)は天津神(あまつかみ)が住む所とされている。
高天原山にある神社の両脇に520体の石仏があります。
この神社のご神体は、国常立尊(くにとこたちのみこと)。
日本航空123便の乗員乗客524名のうち死亡者は520名とされている。
★このことに
人数をあわせているのではないか?
と考えられます
【意見】意図的である根拠
日本航空123便墜落事故の本当の生存者は7名だったのか?
公式の記録では、4名の生存者 となっていますが、日本経済新聞の紙面では、7名の生存者 と公表されています。
日本経済新聞の紙面が正しい。
520名死亡の真相が理解出来たでしょうか?
JAL123便を撃墜した連中に取って、何がなんでも520名でなければならなかったのです。
、実際には、517名の死亡者だった訳です。そして、他の3名の生存者は、密かにどこかに連れ去られたのです。
3名のその後の安否につきましては、一切不明となっています。
日本経済新聞の記事は日航落合由美さん
朝日新聞1985年8月13日の夕刊最終版4版一面トップの見出しは「生存者8人」と正確に報道しています。
(虐殺を免れた8名の内訳
123便に関して一定の知識がある人ならば、123便が墜落した時点では多数の生存者がいた事はご存知でしょう。多数の生存者は口封じで虐殺された
8名の方々が虐殺を免れたのです。
落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さんの親子の4人。
日航機墜落事故現場にいた7~8歳くらいの男の子、元気でそのあたりを飛び跳ねていた女の子、中学生くらいの男の子、20代の男性の4人。後の4名は、死亡者を520名にする為に殺害されたと考えられる。
520名にする必要性は高天原山にある神社の両脇にある520体の石仏
123便が墜落した時点では多数の生存者がいた
【情報】ひどい切断された首
遺体安置所となった藤岡市・市民体育館で身元確認班長
の証言
「『A列8番』の棺。その中には、幼い女児の頭部だけが寂しく眠っている。
首からスパッと切断されているが、顔面頭部には殆(ほとん)ど損傷はない。
顔などは、かすり傷ひとつもないように綺麗(キレイ)だった。まるでコケシ人形の童女のように、堪(たま)らなくあどけない。
小さな唇と、愛くるしいほっぺには、ほほ笑みさえ感じられる。日赤の看護婦さんが優しく洗い、櫛(クシ)で梳(と)かしてやったことでの黒く柔らかいことでの髪の毛もそのままだ」。
大型アーミーナイフを持った男達によって、スパッと切断された
★特殊部隊がいたということ
【意見】男の子について。
「拉致疑惑 4人連れ」
8月13日午前9時半か、10時頃に、地元・上野村消防団が墜落現場に、獣道(けものみち)を登って行く途中で、沢伝(さわづた)いに下って来る「4人連れ」に遭遇している。
4人のうち3人は中年男性で、残り1人は、中学生だった。
軽装で、消防団には挨拶もなく無言で下って行った。上野村消防団員が、4人連れを目撃した状況
「更(さら)に20分ほど急坂を登り、また沢の方に下り始めた地点だろうか、沢伝(さわづた)いに下りて来る所で、
中年の男性3人と中学生くらいの少年が加わった4人のグループに出(で)くわした。
熊笹(クマザサ)が生い茂る獣道(けものみち)を歩くにしては、余りにも軽装だ。半袖シャツ、Tシャツ、ズボンにウォーキングシューズ。カメラなどの所持品は持っていない。男2人が小(ちい)さ目のナップサックを背負っているくらいだ。警察官でもないし、報道関係者でもない。勿論(もちろん)に自衛隊員でもない。
『こんにちわっす』。消防団員の何人かが挨拶をしたが、何の返事も返って来ない。ただ、中年の一人が、軽く頭を下げたように見えた。
『あれは、今でも不思議でしようがないよ。地上から本谷上流を登った者は、俺たちが間違いなく最初だよ。それなのにさぁ、もう下りて来るヤツがいたんだもんなぁ。
自衛隊とかさ、マスコミの連中なら分かるよ。後(あと)で機動隊の人に話したら、「俺たちは、そういう人には会っていない。嘘だんべ。亡霊でも見たんじゃあねぇの」なんて言いやがる。
じゃあ、誰なんだ。あれは・・・・・。背筋がゾクっとしたぜ』。宮沢が首を傾(かし)げる。『変(へん)だいなぁ』。中沢が、相槌(あいづち)を打った。
まず群馬県側の地上からスゲノ沢に最初に到着した者は、上野村消防団員に間違いない。そして分団ごとに分かれたことでの40人~50人の消防団員が、
下山して来る軽装の4人(うち1人は、たぶん中学生)と擦(す)れ違ったことも事実だ。そして、その場所はスゲノ沢まで、後(あと)僅(わず)か20分~30分の地点であった」。
中年男性3人と、男子中学生は、いったい何者か。
普通であれば、「現場は酷(ひど)い」とか「現場は、もう直ぐだ」とかの会話が、擦(す)れ違ったときに交(か)わされても良さそうである。
峻険(しゅんけん)な山であるにも拘(かか)わらず、軽装であることや、威圧を感ずる程無言のままで通り過ぎる様子から何を直観するか。
極めて陰険な威圧感を直観する。この男子中学生はいったい誰か。
男子中学生は、JAL123便機体後部の破壊から生存し脱出をし、スゲノ沢に放り出されたと推定される。墜落現場で生存していた
翌朝になり、中学生は機体の傍(そば)を離れ、直ぐ横の林の中に待避した。否、墜落後に気が付いて、直ぐに「身の危険」を察知して付近の林に逃げ込んだ。
男子中学生がJAL123便の乗客の一員とすれば、「ミサイル撃墜を喋られてはまずい。」と、上からの身柄確保・身柄連行命令があった
男子中学生
「虐殺を免れた8名」の「中学生くらいの男の子」だろう。結局、この「中学生くらいの男の子」は、3人の中年男性に殺害されたのではないだろうか。
★その後どうなったのか
まったくわからないから
殺されたと考える
【意見】女の子について。
消防団員に抱えられた女の子
13日午前に救出された「消防団員に抱えられた女の子」の消息も、
その後に完全に途絶してしまった。
『一人の女の子は、担架に乗らないほど元気で、救助隊員に抱かれている。他の2人は毛布を被(かぶ)されているために、男女の別や怪我の程度は、はっきりしない』」。
担架に乗らないで歩いて救出された女の子のことが、明確に記述されている。
この女の子は、その後どうしたのか。女の子が存在したこと自体が、完全に世間から抹消されている。
この「消防団員に抱えられた女の子」こそ、(5)に記した「虐殺を免れた8名」の「元気でそのあたりを飛び跳ねていた女の子」だろう。
結局、この「元気でそのあたりを飛び跳ねていた女の子」は、何らかの経過を経て何者かに殺害されたのではないだろうか。
★その後どうなったのか
わからない。
1985年8月13日午前、7,8歳くらいの小さな男の子が走り回っているところを自衛隊員に発見されているとの報告が、無線で直ちに流された。
報道関係者もこの無線を傍受して「男の子発見」のニュースが流れた。「現場は惨憺たる状況です。間もなく担架に乗せられた7,8歳の少年が運ばれて来ます。」
しかしその後に、この男の子に関する情報は途絶した。
小さな男の子の消息は一切が表に出て来なくなった。
7,8歳くらいの小さな男の子は、1985年8月13日の早朝の自衛隊特殊精鋭部隊の残虐行為を目撃したために
自衛隊員に拉致され殺害されたのではないか。
★自衛隊というか
米軍特殊部隊ですね
自分で顔を隠す余力のある生存者の男の子が、自衛隊員によって運び出されている。
4人の生存者が出たスゲの沢付近にて撮影された写真
もしかしたら美谷島健くんなのではないでしょうか(当時9歳)。ご存知かとは思いますが、お母様が遺族会のとりまとめをなさっていたと記憶します。
報道では健くんの遺体は見つからず運動靴だけが発見されたとの事。
カメラマンの写真を見ると、確かに運動靴が片方脱げた状態で運ばれています。
★どこへいってしまったのか?
●された可能性がありう
【意見】川上慶子さん
奇跡的に生還した川上慶子さん(当時12歳)の証言
同乗していた両親が亡くなったので島根の祖母宅へ帰ったときの話。
「墜落した後、ふと気が付いたら周囲は真っ暗だった。あちこちでうめき声が聞こえ、私の両親もまだ生きていたような気がする。
しばらくすると前方から懐中電灯の光が近づいてきたので助かったと思った。そのあとまた意識がなくなり、次に目が覚めると明るくなっていたが救助の人は誰もいなくて、周りの人たちはみんな死んでいた。」
慶子さんから上記の話を聞いた祖母はご近所の人に伝えたらしい。しかし「慶子は夢でも見たんじやろう。」で終わってしまった。
突然、トイレのへんからビリッと音がして、そのあとパーンという音と一緒に天井が吹っ飛んだ。斜め後ろの1m四方の穴が開き、白いものがそこからと前に出てきた。
口の中が痛くなったけど、しばらくしたらしびれもなくなった
後ろの穴からプロペラみたいのがゆっくり回っているのが見えた。酸素マスクが落ちてきたので着けた。
お父さんが『慶子、頭を下げろ』と叫んで、私と咲子、それにお母さんの三人を両手で抱き抱えて守ってくれました。そして急降下していきました
落ちるとき、『お父さん、苦しい』というと、お父さんは『ナイフを使って(ベルトを)切れ』といった
落ちたとき、私の上には蜂の巣のようなもので、ボルトがいっぱい出たものがあって痛くて動けなかった。
『お父さん、動けないよぉ』というと、『お父さんも身動き出来ない』といった。
お父さんは私の右腹から上の方に折り重なっていて、ちょっとどけようとすると、すごく痛いので『お父さん、痛い』といったらそのまま動かなくなった。
気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。
自分の体中を触ってみても、みんな付いており「生きている」と思った。みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。
母は答えなかった。「手や足を動かしてみ」と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首 がヌルヌルしていて「血だな」と思った。
父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。「助けて」と父に言うと「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。
助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ」と言われた。
父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。
咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。
その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。
妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、
島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。
突然、咲子が「ゲボゲボと吐くような声」を出ししゃべらなくなった。一人になってしまったと思い。その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。
目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。
「生きているんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。
そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。
顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。
そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。「中学になってから慶子は根気がなくなった」と日ごろから言われていた言葉を思い出し、頑張った。
人の気配がして「生きている人は手や足を動かして」と声がした。
川上慶子さんのその後
美少女だった川上慶子さんにマスコミの取材が集中した。
日航機墜落事故から30年。生存者の兄が今語る「中学校の通学路で記者に待ち伏せされた」マスコミ被害
「私は聖子ちゃんではない」:その後のマスコミの取材攻勢のときに川上慶子さんが漏らしたとされる言葉です。
事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(中学生の)兄の3人で生活し、親戚の小田さんも大阪から足繁く通って、彼女等の面倒をみた。
慶子さんは美少女だったから励ましの声と同時に好奇の目も集中し、ストーカーまがいの行為に長く悩まされた。自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いた。
その後、川上慶子さんは保健師だった母親の遺志を継いで看護師となって兵庫県の病院で働き始めた。1995年の阪神淡路大震災の際には兵庫県尼崎市で怪我人の手当に奔走した。
その後、川上慶子さんは趣味であるスキューバダイビングをするためにアメリカを訪れた際に知り合ったアメリカ人と2002年に結婚した。
★何か話されると
まずいから
アメリカ人と
結婚した
させられたのではないか?と思います
【意見】
日本航空123便墜落事故<御巣鷹山事変>の生存者と遺族は、事故の真相を知っている可能性が高い。
生存者4人は
裁判に一度も来ていないと
言われています
何か言ったら
●される
殻だと思います
川上慶子さんは常に
米に見られているのではないか?