今回は他人が羨ましいと感じる件について書いていきます。誰しも思ったことがある内容ではないでしょうか?僕はこのことを昔からずっと悩んでおりました。そんな僕なりの考えをまとめていきますので最後までご覧いただければと思います。
僕は昔から友達が羨ましいと思っていました。
僕は子供の頃から友達が羨ましいと思っていました。僕は勉強もできなければスポーツもできないし、女の子にもてるわけでもありません。何も取り柄がない人間であると思っておりました。学校でもそのようなことを言われたこともありますし、常に他人と比較して自分の中で劣等感を持っていました。今考えると日本の競争社会や学校教育でこのような概念を植え付けられたのだろうと感じます。ある時からこのような考えが薄れてきました。そもそもの疑問点について考えていきます。
なぜ人間は他者を羨ましく思うのか?
僕もそうですがそもそも人間は何故他者を羨ましく思うのか?ということを考えていきます。自分が羨ましいと感じている他者も全てのことを満たされていないということです。そして僕が学んだすごく重要なことですが、
■自分も他人になれないし、他人も自分にはなれない
自分が他人と比べて優れているとか優れていないということ自体が無意味であるということです。目標は他人がどうこうではなく、唯一無二の人間になることだと思います。あまりこのようなことを日本の学校教育では教わらないと思います。自分は他人にはなれないし、他人もまた自分にはなれないということを認識することが大切であると思います。ぶっちゃけ他人はどうでもいいのでもっと自分のことに集中すればいいということです。仕事も恋愛も趣味もなんでもそうだと思います。僕は少し前まではもし生まれ変わったらどんな人間になりたいか?という問いに他人を連想していました。自分の悪い部分をみて自分は何もできないということを感じておりましたが、あるときに解釈の問題であるということを分かりました。よく聞く話ですがコップにジュースが半分になった時に
■残りが半分しかない
■残りが半分もある
残りの量が半分であるという事実は同じです。何が違うのか?というと解釈が違うだけです。毎日食事することができて、仕事ができてという変わらない日常生活を過ごせるということが幸せなのだと思います。かわりばえしない日常を送れることが幸せであると僕は思います。僕の知っている人がおっしゃっておりましたが、よくsnsできらびやかな生活を演出している人がいますが、自分がこんな生活をしているんだということをアピールしているだけで実際は違うこともよくあるそうです。そのようなことを知らずに他の人はどうこうで自分はどうこうというのは自分から否定的な方向に進んでいると思います。人生は解釈次第で自分の人生を肯定的にとらえれば全然違うと思います。この記事が何かの参考になっていただければと思います。最後までごらんいただきましてありがとうございます。