今回は奴隷の鎖自慢という抽象的な話について考えていきますので最後までご覧いただければと思います。
リロイ・ジョーンズが語る奴隷の鎖自慢という話について。
奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、自らが奴隷であることに気付いてすらいない。それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。
この話は有名な話として知られています。この話はいったい何を物語っているのでしょうか?
●人間は環境に慣れてはいけないということ
●人と人との対立について
●物事の本質は裏側に隠されている
解釈は人によって異なると思います。何が正しいということはないと思います。
僕の解釈はこのようなかんじです。
この世界には一部の支配層がおります。そしてそれ以外の人間をごいむといっています。ごいむというのは奴隷ということだと思います。
リロイ・ジョーンズはこの世界の支配構造を語っているのだと思います。そしてこの話から考えることがあるのでそのことについて触れていきます。
日本人の奴隷の鎖自慢について。
一部の人たちの間ではこのようなことが言われております。
日本人は奴隷の鎖自慢したり
不幸になることを望んでいるのではないか?
日本人からするとそんなことはないというかもしれないですがこのような側面も十分に考えられます。
この世界の支配層が最も嫌がるとされていることが分かっています。
支配層は奴隷が結束することを
嫌います。だから人間を分からないように対立させるという手法をとります。
日本人ひとりひとりが調和を
様々なことに気が付くことでしか
日本がよくなることはないと思います。
色々なことを言う人がおりますがこのようなことを言っている意見を聞いたことがありませんので僕なりに思うことを書いてみました。
日本国民が結束して考えて行動すれば日本が良くなると思います。
奴隷の鎖自慢をしている時間などないと思います。
何かしらの参考になっていただけることがあれば何よりです。
最後までご覧いただきましてありがとうございました。