今回は日航機123便のマスコミ報道について注目していきます。本当にクズだと思います。ということを考えていきますので最後までご覧いただければと思います。
【その①】
1985年8月13日
午前10時54分 スゲノ沢で生存者発見。
午後13時05分 ヘリの救出映像撮影。
つまり生存者発見から僅か2時間後には、その発見現場に撮影スタッフが機材を持参して到着し、
撮影スタンバイしていたと言うことになる。
群馬県上野村村長(当時)の黒沢丈夫(元・帝国海軍少佐)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断し、
土地鑑のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請した。現場までは熊笹の生い茂る、傾斜角30度の急斜面で、約2kmの道のりに1時間30分もかかる難路だった。
上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊が陸路で現場に到着、ようやく本格的な救難活動が開始された。
土地勘があり、その場所に何度も登った経験を持つ地元消防団員たちの足でも「1時間30分」を要する道のりである。
初めて訪れた「東京の撮影スタッフ」が撮影機材を担いで2時間以内に到着できるわけがない。
●マスコミは123便について知らされていた。
この件は政府も隠しているが
マスコミには情報が
回っていたということが分かる。
そうでなければ
このようなことは不可能ですから。
次の内容が本当にひどい。
クズ
数字のためなら
なんでもする
そこには
人間としての心も
気持ちもないということ。
【その②】
●この映像は何度も流されました。
女性の下着が映ってしまっています。
※本当にマスコミはクズであると思います。
御巣鷹山での事故の時、被害者の体から毛布を剥ぎ取ったマスコミがいた。
御巣鷹山でのJAL123便の事故で唯一救出されたのは4名の女性でしたが、
特に有名なのは「川上慶子」さんが、自衛隊員に抱き抱えられたままヘリに釣り上げられる写真です。
しかしこの前に大事件があったことが後の現場の隊長だった人の週刊新潮の語ったことで明るみに出ましたが、
それを後追い報道するマスコミは一切なかったです。
当時14歳だった川上慶子さん。彼女を収容したのが、私の相棒だった作間2曹でした。
1人目と同じように、毛布で包んで準備をしていると“事件”が起きました。救出される生存者の姿を撮影したかったのでしょうが、
なんと、いつの間にか周りにいた報道陣から手が伸びてきて、毛布を剥ぎ取ったんです。
「何をするんだ!」と怒りましたが、もうヘリは真上にいてワイヤが下りてきている。仕方なく、
作間2曹は毛布無しで川上さんを抱えて吊り上げられました。”(2020年の週刊新潮の記事から抜粋)
●マスコミがわざとやったということです。
新潮の記事に出たのは当時の習志野の空挺師団に属し、後に陸幕長にまでなった、岡部俊哉氏です。
川上慶子の叔父が週刊文春に語った言葉、「慶子はあれから極度のマスコミ嫌いになった一度もマスコミには登場していません」当然だろう。
しかし日本に文春と新潮がなくなればこんな記事を書く媒体がなくなると言う事。
●ずっと川上慶子さんのこの映像が
残ってしまうということです。
物凄く有名になった写真。なんで担架で挙げないのか不思議だったが。
毛布を剥ぎ取ったためにきっと「良い写真が取れたしめしめ」と思ったのだろう
●被害にあった人の
気持ちなど全く考えていないということ。
ヘリから降ろされて担架で病院に搬入するときの写真。この時テレビ局の記者が彼女にマイクを突きつけて
「当時の様子はどうでしたか」と聞いた場面をそのTVで見た。
物凄いショックを受けて心身ともに極度の状態になっている人にその場を思い出させるような行為は
「ショック状態になって最悪死亡も考えられる」と知り合いの医者に言われたことがある。
●被害者のことを全く考えていない。
毎年慰霊碑に手を合わせる、岡部元陸幕長。彼自身も急性ストレス障害(ASD)心的外傷後ストレス障害(PTSD)となり、
毎日ウィスキーをがぶ飲みしないと寝れなくなったり、昼間でもボートすることが1っヶ月以上も続いたとか。
彼の部下も現場に行った隊員たちだけで一緒に寝ないと眠れない状況が続いたらしい。
川上慶子さんの下着を意図的にマスコミは
映像に流していた。
マスコミというのが
最低のクズであるということが
分かります。
本当にひどすぎると思います。