今回は日航機123便の生存者の謎について考えていきますので最後までご覧いただければと思います。
この内容を複数人の人に僕は聞かれましたが正直分かりません。色々調べてこうなのではないか?ということを書いていきます。
特にこの川上慶子さんに
ついて
実は乗っていなかったのではないか?という憶測が多数あります。
分かっている情報から
考えていきます。
単なる事故ではなく事前に分かっていた可能性について。
川上慶子さんの家族の証言から
この件が事前に仕組まれていたということが
分かります。
そのような日のしかもとりわけ需要の高い18時台の便で4人もキャンセル待ちでチケットが取れるってなかなかあり得ない話です。
それがあり得たのは、123便のチケットを事前に購入しながら、日航機撃墜計画を知ってしまいキャンセルをした人々が結構いたからです。
2015年に放送されたTBS系の番組の中で、川上慶子さんのお兄さんの千春さんが、自分が北海道ツアーに参加していれば、5人となり、
キャンセル待ちをしてもチケットが取れないからこのような事にならずに済んだのにと後悔していると言う話が出てきた。
4人が隣り合う形で座席は確保できなかったかもしれないが、離れた形なら千春さんの座席も取れた可能性が高い。
需要が高い日であり更に需要が高い時間帯なのに、123便はとてもキャンセルが多かったのです。
特に政治家のキャンセルが多かった。それが起きる事を知っていた奴らがいたのである!
実にひどい話である。明石家さんまはおそらくあるルートから123便に乗ってはいけないと言う情報が入り、ドタキャンしたと推測される。
●明石家さんま
●ジャニー喜多川
が乗っていなかったということ
1985年8月12日当時12歳の少女だった川上慶子さん
は意図的に乗っていた可能性がある。
●乗せられていた可能性がある。
●乗っていたか
それとも
乗っていなかったか
分かりません。
理由ははっきりわかりませんが・・・
川上慶子さんの父親
川上慶子さんは家族4人で北海道旅行の帰りに大阪の親戚宅に寄るため羽田に戻り、 キャンセル待ちの後123便に搭乗した。事故当時12歳だった。
川上慶子さんの父親は町議会議員だった。
川上慶子さんの父親である英治さんがJAL123便墜落事故で逝去された後、
当時の島根県簸川郡大社町の日本共産党の町議会議員としての立場で紙面に登場した。
何かあって
123便に乗ったか?
それとも
デタラメの証言をするように言われたのか?
ということが分かりません。
このような当時の状況があります。
しかしおかしな点がいくつもあります。
当時の状況についての描写について。
突然、トイレのへんからビリッと音がして、そのあとパーンという音と一緒に天井が吹っ飛んだ。斜め後ろの1m四方の穴が開き、
白いものがそこからと前に出てきた。口の中が痛くなったけど、しばらくしたらしびれもなくなった
後ろの穴からプロペラみたいのがゆっくり回っているのが見えた。酸素マスクが落ちてきたので着けた。
●しかし乗客は誰も
酸素マスクを着けていなったという情報があることから
この話が嘘である
可能性があります。
●つまりはこの話が嘘である
可能性が出てきます。
もしかしたら
乗っていない。
お父さんが『慶子、頭を下げろ』と叫んで、私と咲子、それにお母さんの三人を両手で抱き抱えて守ってくれました。
そして急降下していきました
落ちるとき、『お父さん、苦しい』というと、お父さんは『ナイフを使って(ベルトを)切れ』といった
落ちたとき、私の上には蜂の巣のようなもので、ボルトがいっぱい出たものがあって痛くて動けなかった。
『お父さん、動けないよぉ』というと、『お父さんも身動き出来ない』といった。
お父さんは私の右腹から上の方に折り重なっていて、ちょっとどけようとすると、
すごく痛いので『お父さん、痛い』といったらそのまま動かなくなった。
気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。
手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており「生きている」と思った。
みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。
母は答えなかった。「手や足を動かしてみ」と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。
足首 がヌルヌルしていて「血だな」と思った。
父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。
「助けて」と父に言うと「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ」と言われた。
父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。
咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。
その後、咲子と二人でしゃべった。
咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。
妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、
島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。
突然、咲子が「ゲボゲボと吐くような声」を出ししゃべらなくなった。一人になってしまったと思い。
その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。
目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。「生きているんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。
父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。
そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。
顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。
そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。「中学になってから慶子は根気がなくなった」と日ごろから言われていた言葉を思い出し、
頑張った。人の気配がして「生きている人は手や足を動かして」と声がした。
足をバタバタさせると人が近寄って来た。ボサボサの頭ショートパンツで勘違いされたらしく「男の子だ!」と言われた。
●実はこの話もおかしい部分があります。
ボサボサの頭ショートパンツで勘違いされたらしく男の子
というのは別におり
その男の子は殺された可能性です。
この話も何かを隠している
可能性があります。
さらにここから
おかしな話が出てきます。
マスコミの脚本である可能性があります。
「私は聖子ちゃんではない」
その後のマスコミの取材攻勢のときに川上慶子さんが漏らしたとされる言葉です。
事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(中学生の)兄の3人で生活し、親戚の小田さんも大阪から足繁く通って、
彼女等の面倒をみた。慶子さんは美少女だったから励ましの声と同時に好奇の目も集中し、ストーカーまがいの行為に長く悩まされた。
自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いた。
●何が本当かわかりません。
●この時何かしら
123便の件について
語らなかったのか?
その後、川上慶子さんは保健師だった母親の遺志を継いで看護師となって兵庫県の病院で働き始めた。
1995年の阪神淡路大震災の際には兵庫県尼崎市で怪我人の手当に奔走した。
その後、川上慶子さんは趣味であるスキューバダイビングをするためにアメリカを訪れた際に知り合ったアメリカ人と2002年に結婚した。
アメリカ人男性と結婚した理由は本当のことを
いわないように監視するためではないか?
と僕は思います。
その後、看護師の仕事を辞め、現在は息子二人と幼い娘の子育てに奮闘している。
川上慶子さんも事故の真相を知っている可能性が高い。
しかし真相を語ることはない。
殺されるから。
そしてそうならないように
近くにアメリカ人がいるのではないか?
と思います。
アメリカ人男性と出会い結婚した理由は背後の人間が
アメリカ人男性を彼女に引き合わせ結婚させた可能性がある
僕はそう思います。
川上慶子さんが今どこにいるのか?
ということはわからないということでしょうね。
僕は川上慶子さんは
123便の真相をしっていると思いますが
そのことを
口にすることはないと思います。
日本の深い闇です。