今回はゼロリスクあるいはゼロリスク信仰について考えていきます。実はこの問題は学校教育が関係しているのではないか?と僕は思うところがあるのでそのことを踏まえてまとめていきますので最後までご覧いただければと思います。
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ゼロリスクになることは不可能な件について。
僕たち日本人だけなのかもしれませんがリスクゼロであることを望みます。ゼロリスクということですが、そもそもリスクゼロということが不可能です。自分がリスクがあることに気が付いていないということなのかもしれません。僕はこのゼロリスクという考え方になる原因があると思います。ここからそのことについて書いていきます。
日本の学校教育がゼロリスク信仰の原因になっている可能性があるのではないか?
僕が大人になって感じたことがあります。日本人がゼロリスクという考えを植え付けられたのは学校教育なのではないか?と思います。日本の学校教育では間違えることを悪とする傾向があります。何かの問題を考えた時に正しい答えを出せることもあれば間違えることもあります。しかし日本の学校教育ではこの間違えることを認めないという風潮があるのではないでしょうか?僕の体験ですが子供の頃に小学校の授業で先生に質問されて答えた時に笑われたことを今でも覚えております。このようなことから生徒はもしも自分が何かを思ったり感じても答えなくなると思います。僕もそれ以来学校では答えないようにしていました。自分なりに真剣に考えて答えたつもりでも笑われたりあるいは注意されたりという空気感であれば子供というか生徒は答えなくなると思います。今考えると間違えて笑われるとかありえないですし、いじめだと思います。多くの人間が無言の圧力をかけていると考えます。ここからどういうことになるのかというと何か発言して笑われるあるいは注意されるなら答えない方がいいということになります。何も言わないことがゼロリスクの出発点になっていると考えられます。日本は同調圧力が強いということをよく言われますがこのような教育の過程が深く関係していると思います。僕の考えがあります。
■何かを発言して正しい
■何かを発言して間違えている
■何も発言しない
間違えることを悪としますが、その手前の段階で発言したことがいいことです。間違えたか正しかったかは結果でしかありません。僕はこのように解釈しております。最後に僕の思うことを書いていきます。
ゼロリスクが幻想であることを教えてくれる人が必要だと僕は思います。
大人になった僕が思うことがあります。学校教育でもいいですし、大人になってからでもいいですがきちんとした人がゼロリスクはないということを教えてくれればいいと思います。ゼロリスクは幻想であるということ。何かをするときは必ずリスクを伴うということを教えてくれる人が必要だと思います。そしてそのリスクはどれくらいなのか?ということが分かり、そのリスクが自分でせおえるものであればいいですしせおえないりすくであればやめればいいということです。物事何でもいいですが何かしようと思ってリスクがあるからということで何もしないということがもっとも大きなリスクということをきちんと教えてくれる人が必要だと思います。学校教育で生徒や子供たちに教えることの大切な内容はこのようなことだと思います。僕はこのようなことを教えてくれる先生を学校や会社で見たことがありません。何か教えるというのは失敗してもいいしうまくいかなかったらまた挑戦すればいいんだよという言葉をかけてくれる人が日本の教育現場に必要だと僕は思います。ということで今回の記事はここで終わりです。最後までご覧いただきましてありがとうございました。