知らんけどと関西人が最後にいうワケを憶測!

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今回は関西人が会話の最後に知らんけどということについて考えていきます。この話に疑問を持ったことがある方いるのではないでしょうか?僕は会話していてよく疑問を感じます。たまに内心知らんのによくいうななんて思ったりもします。そんなことを思いながら書いていきますので最後までご覧いただければと思います。

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関西人が知らんけどという意味について。

関西人が知らんけどと会話の最後にいう意味について考えてみました。

■他人から聞いた話を言っているあるいはどこか他から得た情報を言っているということで話が確実ではないということを含んでいるのかな?と憶測できます。

それにしても明らかに分かっているときにもよう知らんけどとかいうのでいったい何だろうか?と僕は疑問を感じたりもします。

もしも知っていることだけしか話せないということになると会話できなくなりますから。

僕も知らないことだらけですけど、僕は知らんけどとはいいません笑

いったいなぜこのような言葉が出るのか?ということを少し真面目に考えてみました。ここからそのことについて触れていきます。

知らんけどと関西人が最後にいうワケを憶測!

あくまでも憶測ですので関西人がこのようなことを考えているのかどうかということは分かりません。よう知らんけど笑

ただしこの世界は知らない事ばかりです。

フランスの哲学者デカルトはこの世界に絶対確実なこと
があるのかということをずっと疑っていたと言われております。

有名な言葉の

我思う故に我ありという

表現は色々なことを疑っている自分がいるということが真理であるといっていました。

フランスの哲学者デカルトは神の存在や宇宙といったことを研究していたということが分かっておりますが、神の存在も宇宙についてもはっきりと分かっておりません。

フランスの哲学者デカルトが分からないわけですから僕たち一般人が分からないというのは当たり前だと思います。

僕たちの生きている世界においては絶対確実なことなどあるのかどうかということは誰にもわからないということです。

そのようなことを考慮すると関西人の文章の最後に知らんけどというのは意味が深いなと感じました。

こんなことをとても考えているとは思いませんけど。。。

僕は会話しながらこんなことをいつも思っています。

みなさんがこのようなことを思われたことあるかな?と思って書いてみました。

何かしら思っていただけることがあれば何よりです。

最後までご覧いただきましてありがとうございました。

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